FAZER LOGIN「遥人。おまえには、私の婚約者になってもらう」
リシアが何を言ったのか、言葉の意味は正確に理解できた。
俺の技能は「万象通訳」であり、聞き慣れない竜族の言葉や始原語であっても、そこに伝えようとする意味がある限り読み違えることはない。それでも、このときばかりは、自分の能力が壊れているのではないかと疑いたくなった。
「すまない。転移門を直すために寝ていなかったせいか、今の言葉をうまく理解できなかった。婚約者というのは、竜帝国では別の意味を持つ役職か何かなのか」
「おまえが想像しているものと同じだ。将来の結婚を約束した相手、つまり夫となる予定の男を指す」
「それなら、聞き間違いじゃなかったらしいな」
「最初から、そう言っている」
「確認したいんだが、あなたと俺が出会ったのは、昨日だったよな」
「正確には、一昨日の夕刻だ。おまえが長く眠っていたので、その分だけ時間が過ぎている」
「日数を一日増やしたところで、知り合ったばかりであることは変わらない。しかも俺は人間で、あなたは人間嫌いの竜皇女だ。助けた直後には剣を喉へ向けられ、昨日は所有物と宣言された。そこからどういう順番で考えれば、婚約という結論にたどり着くんだ」
「私も好きで、この結論を出したわけではない!」
リシアは声を荒らげた後、廊下に控えている侍従たちへ聞こえたかもしれないと気づき、咳払いでごまかした。
表情だけは冷静さを取り戻したものの、魂から漏れてくる声は混乱したままだった。
『もっと落ち着いて説明するつもりだったのに、なぜ最初から言い争いになっているのだ。そもそも、私も好きで考えたわけではないという言い方では、この男との婚約が嫌でたまらないように聞こえるではないか。いや、これは偽装なのだから、嫌でも問題はないはずだ。それなのに、どうして遥人が傷ついた顔をしていないか気になるのだ』
彼女が気にしているほど、俺は傷ついていない。そもそも、知り合って二日ほどの女性から、仕方なく婚約すると言われて落ち込めるほど、自分が好かれているとは思っていなかった。
ただし、魂の声からも分かるように、単純な冗談ではないらしい。
「分かった。先に話を聞く。それから断るかどうかを決める」
「まだ説明していないのに、断ることまで考えているのか」
「婚約は、普通なら簡単に受け入れる話じゃない。むしろ、説明も聞かずに承諾する男のほうが信用できないだろう」
「確かに、おまえが即座に受け入れたら、私はおまえが皇族の地位を狙っていたのではないかと疑っただろうな」
「それでは、どう答えても疑われるじゃないか」
「だから、説明を聞いてから自分で判断しろと言っている」
「今、それを言ったのは俺だ」
リシアは何か言い返しかけたが、結局、諦めたようにため息をついた。
彼女は向かいの椅子へ腰を下ろすと、俺にも座るよう促した。夜中に若い男女が二人きりで婚約について話し合っているのだから、形だけを見れば甘い場面なのかもしれない。
実際には、俺は処刑を免れたばかりの無一文の異世界人で、リシアは俺をどのような身分へ押し込めれば殺されずに済むのかを考えている。恋愛らしい雰囲気は、どこにもなかった。
「まず、帝国の皇位継承制度から説明する。母上は即位してから三百年以上が経ち、そろそろ次代の皇帝を決めるべきだという声が強くなっている」
「三百年以上……」
「そこに驚くのか。竜族は人間より長く生きる。母上は女帝として働き盛りだが、各地の有力貴族は、自分たちが支持する皇子や皇女を後継者にしたがっている。母上が元気なうちに争いを終わらせなければ、亡くなった後で帝国が分裂する可能性があるからだ」
「皇位継承争いということか。あなたも候補に入っているのか」
「正式な指名は受けていない。しかし、第三皇女という立場にあり、帝国北部の防衛を任されている以上、私を推す者もいる。その一方で、私が人間との戦争で多くの敵を作ったことや、人付き合いを嫌う性格を問題視する者も多い」
「人付き合いを嫌うという評価には、少し納得できる」
「そこで頷くな。おまえを含め、周囲に面倒な者が多いから、必要のない付き合いを避けているだけだ」
『本当は、何を話せばよいのか分からず避けているだけだが、それを知られれば、皇女としての威厳がなくなる』
俺は魂語の内容に触れず、真面目な顔を保った。
「継承候補になるためには、軍事、統治、魔力という三つの条件に加え、皇族としての家庭を築く意思を示さなければならない。竜帝国では、皇帝の伴侶にも、帝国を支える役割が求められるからだ」
「つまり、結婚していないと皇帝になれないのか」
「即位するまでに結婚すればよいが、次の継承会議までに婚約者を定めなければ、後継者候補から外される。会議は三か月後だ」
「ずいぶん都合のいい期限だな」
「私が決めた期限ではない。それに、私の婚約者が決まっていないことを利用し、有力貴族たちが自分の一族から相手を送り込もうとしている。中でもアレクシオ竜公爵は、軍と元老院の一部を味方につけ、私との婚姻を既定の事実として広め始めている」
アレクシオという名前を口にしたとき、リシアの声には明らかな嫌悪が混じった。
「その公爵が嫌だから、俺を婚約者にしたいのか」
「それだけではない。アレクシオは優秀な男だが、私と結婚すれば、皇位を手に入れたも同然だと考えている。私が皇帝となった後も、政治と軍事の実権を自分が握り、私は竜族の象徴として座っていればよいと、本人から直接言われたことさえある」
「ずいぶん正直な人だな」
「自分が選ばれないとは、まったく考えていないのだ。他者を従わせることに慣れ、自分の望みと帝国の利益が常に同じだと信じている。能力がないわけではないからこそ、周囲も反対しにくい」
「そんな相手と三百年も四百年も夫婦になるのは、確かに嫌だろうな」
「分かるのか」
「人間の結婚生活は竜族ほど長くないけれど、自分の話を聞かない相手と何十年も暮らすのは十分につらい。あなたの場合、意見が合わなくなったら宮殿ごと凍らせそうだけど」
「私は、その程度で宮殿を壊したりしない」
『ただし、アレクシオの執務室だけなら、三度ほど凍らせたいと思ったことがある』
実行していないだけ、理性は保っているらしい。
「事情は分かった。でも、俺を婚約者にすれば、もっと大きな反発が起きるんじゃないか。人間嫌いの竜帝国で、第三皇女が人間と結婚すると宣言するんだろう」
「反発は起きる。おそらく、元老院の半数は私の正気を疑い、残りの半数は、おまえを暗殺する方法を考える」
「そこで少しくらい言葉を濁してくれてもよかったんじゃないか」
「危険を隠したまま婚約させれば、おまえは後から必ず文句を言うだろう」
「隠されなくても言いたくなっている。ただ、俺が正式な婚約者になれば、皇族に準ずる保護を受けられるということか」
「そうだ。私の婚約者を害する行為は、私だけでなく皇室全体への敵対と見なされる。母上や兄姉たちであっても、正当な裁判を経ず、おまえを別の場所へ移したり処刑したりすることはできなくなる」
「あなたにとっては、望まない政略結婚を断る理由になり、俺をそばへ置いたまま能力を使える。俺にとっては、竜帝国で生きるための身分と保護を得られる。互いに利益はあるということだな」
「そのとおりだ。三か月後の継承会議が終われば、婚約を解消して構わない。その頃には、おまえの功績に応じた爵位か役職を用意し、私の婚約者でなくても帝国に滞在できる身分を与える」
「期限付きの偽装婚約ということか」
「初めからそう説明している」
「偽装という言葉は、今初めて聞いた」
リシアは一瞬黙り込み、考え直すように視線を斜め上へ向けた。
「確かに、明確には言っていなかったかもしれない。しかし、知り合って二日の相手へ本気で結婚を申し込むわけがないだろう。普通に考えれば、偽装だと分かる」
「普通に考えれば、知り合って二日の相手を婚約者にしない。最初から普通ではない状況で、俺に察することを求めないでくれ」
「おまえには私の魂語が聞こえるのだから、それくらい察することはできるだろう」
「聞こえるからこそ困っている。口では政治上の必要だと言いながら、魂では俺をほかの人に渡したくないと考えていた」
言ってから、また余計なことを口にしたと気づいた。
リシアは何も言わないまま、顔を真っ赤にして俺を睨んでいる。
「今のは忘れてくれ」
「忘れられると思うのか!」
「俺も同じことを言われたな。記憶は命令されて消せるほど便利じゃない」
「私の言葉を利用して言い返すな。あれは、能力を持つおまえを敵対勢力へ渡せないという意味だ。男として独占したいなどとは、一言も言っていない」
「分かっている。だから、そんなに必死に否定しなくてもいい」
「その余裕のある態度が腹立たしいのだ! おまえのほうこそ、私との婚約を少しも意識していないのか」
問いかけた直後、リシアは自分から何を尋ねてしまったのか気づいたようだった。
俺も、すぐには答えられなかった。
リシアは美しい。人の姿を取った彼女は、帝国の皇女という身分を抜きにしても、これまで会ったどの女性より目を引く。気位が高く、言葉は厳しいが、傷ついた誰かを見捨てることができない優しさも持っている。
魅力を感じていないと言えば、嘘になる。
だからこそ、偽装だと分かっている婚約を、冗談のように受け入れるわけにはいかなかった。
「意識していないわけじゃない。あなたは綺麗だし、不器用だけれど、悪い人ではないと思っている。でも、俺が何か勘違いすれば、三か月後に困るのはお互いだろう。期限が来たら終わる関係なら、最初から距離を決めておく必要がある」
「おまえは、随分と先のことまで考えるのだな」
「仕事で何度も、契約終了の直前になって話が違うと言い出す人たちを見てきたからな。始める前に終わり方を決めておいたほうが、揉め事は少なくなる」
「それなら、おまえが望む条件を言え。私にも条件があるから、明日までに契約書を作らせる」
「まず、婚約している間も、互いの私生活には必要以上に干渉しない。部屋は別にして、恋人らしい行為を当然の義務にしないこと。人前で婚約者らしく振る舞う必要があるなら、事前に何をするか説明してほしい」
「いちいち説明しなければ、手をつなぐことすらできないのか」
「いきなり抱きつかれたり口づけされたりするよりはいいだろう。俺だけでなく、あなたのためでもある」
「私がおまえへ口づけするような状況が、本当にあると思っているのか」
『宴席や儀式で求められる可能性はある。だが、それを今説明すれば、私が口づけを想像しているように思われるではないか。そもそも、人間の男と口づけるとは、どういう感覚なのだ』
リシアは考えないようにしようとするほど、具体的に想像してしまっている。
聞いている俺のほうまで気まずくなり、咳払いをして話を戻した。
「ないなら、それでいい。次に、俺を所有物と呼ばないこと。少なくとも、二人きりのときは絶対にやめてくれ」
「人前では必要になる場合がある。その言葉によって守られることもあると理解しろ」
「だから、人前で必要なときまで禁止するとは言っていない。ただ、ずっと所有物扱いされていると、あなたの宮で働く気をなくしそうだ」
「分かった。二人きりのときは、名前で呼ぶ」
「それから、俺が仕事をしたときは、誰の功績なのか明確に記録してほしい。報酬も、事前に決める。面倒だと思うかもしれないけれど、ここだけは譲れない」
リシアは俺の顔をじっと見た。
「おまえを追放した勇者は、そこまでおまえの功績を奪っていたのか」
「怜央一人のせいじゃない。王国が、戦えない人間の働きを必要としていなかったんだと思う。勇者が魔物を倒した話なら民衆に喜ばれるけれど、通訳が話し合いで戦いを避けたと言っても、英雄物語にはならないからな」
「分かった。その条件は、必ず契約書へ入れる。おまえがした仕事を、私や帝国の功績だけにはしない」
「簡単に約束していいのか。皇族としては、自分の功績にしたほうが得だろう」
「おまえが正しい働きをしたのなら、それを正しく記録するのが皇族の役目だ。おまえを利用するために婚約を求めていることは否定しないが、だからといって、おまえの尊厳まで奪うつもりはない」
リシアの言葉と魂の声は一致していた。
俺が王国で最も欲しかった言葉を、敵国の皇女が当然のこととして口にする。
それだけで受け入れると決めるのは危険だと分かっていても、胸の奥で固くなっていた何かが、少しだけ緩んだ。
「俺からの条件は、今のところそれくらいだ。あなたの条件は?」
「公の場では、私の判断に従うこと。婚約者として最低限の礼儀を学び、ほかの女性と必要以上に親しくしないこと。私の魂語について口外せず、聞こえた内容を政争に利用しないこと。そして、危険なことをするときは、必ず事前に私へ相談することだ」
「最後の条件は、婚約と関係があるのか」
「ある。婚約者が勝手に死ねば、私の立場が悪くなる」
『立場など、どうでもよい。もう一度、この男が目の前で倒れるところなど見たくない』
「分かった。努力する」
「努力ではなく約束しろ」
「状況によっては、相談する時間がないかもしれない。守れない可能性のあることを、簡単に約束したくないんだ」
「ならば、できる限り相談すると書かせる。おまえは放っておけば、自分の命を使って他人を助けようとするからな」
「あなたも同じだろう。転移門を直すとき、傷が開いても魔力を止めなかった」
「それなら、お互いに相手へ相談するという条件にすればよい。どちらか一人だけが守る決まりではない」
「婚約者というより、互いの無茶を監視する契約になってきたな」
「そのほうが、私たちには合っているのかもしれぬ」
リシアが、ほんの少しだけ笑った。
人前で見せる皇女の作られた微笑ではなく、困っているのか、呆れているのか、自分でも分からないような笑い方だった。
俺はその表情を見て、もし彼女が本当に恋人だったならと、一瞬だけ考えてしまった。
だが、これは偽装であり、三か月後には終わる。
忘れないよう、自分へ言い聞かせた。
「まだ承諾したわけではない。もう一つ聞きたい。俺が断ったら、どうするつもりだ」
リシアから笑みが消えた。
「断れば、おまえの身分を守る別の方法を探す。ただし、帝国内に置けば、ほかの皇族や貴族から狙われ続けるだろう」
「それでは、実質的に断れないんじゃないか」
「だから、帝国の外へ逃がすことも考えた。魔族の自由都市に、私が個人的に信頼している商人がいる。偽名と当面の資金を用意し、そこまで護衛をつけることはできる」
「俺を逃がしたと知られれば、あなたも罪に問われるだろう」
「その可能性はある。しかし、おまえが望まぬ婚約を受け入れるよりはよい。私も望まぬ相手との婚姻を避けるために、おまえを利用しようとしている。その私が、おまえへ同じことを強制すれば、アレクシオと変わらなくなる」
魂からは、俺を帝国の外へ行かせたくないという本音が聞こえている。
それでも彼女は、自分の気持ちではなく、俺が選ぶ権利を優先しようとしていた。
もし、断れば殺すと言われていたなら、俺は婚約を受け入れなかっただろう。逃げ道を用意すると言われたからこそ、ここへ残ることを自分で選べる。
「三か月だけなら、引き受ける」
「本当か」
「あなたが嫌がる結婚を避けられて、俺も竜帝国で生きる身分を得られる。危険はあるけれど、魔族の都市へ一人で逃げるより、知っている相手のそばにいるほうがいい。それに、転移門以外にも、直さなければならない始原語が残っているはずだ」
「無理に私へ気を遣っているのではないな」
「気を遣っている部分はある。でも、それだけではない。今の俺には帰る場所がない。だったら、必要としてくれる人の近くで、自分にできることを試してみたい」
「私は、おまえを必要としていると明確に言った覚えはない」
「あなたの条件を聞けば、言われなくても分かる。ほかの人に渡さず、危険なことをする前には相談し、仕事の功績まできちんと記録するつもりなのだろう。必要のない相手へ、そこまで手間をかける人はいない」
リシアは目を逸らしながら、銀色の髪を耳へかけた。
「能力が必要なだけだ。勘違いするな」
『能力だけではない。この男と話していると、腹が立つことも多いが、なぜか息がしやすい。次に何を言われるか分からないのに、もう少し話していたいと思ってしまう』
口にしないと決めた以上、今度こそ黙っておいた。
「それでは、三か月間の偽装婚約で決まりだな。細かな条件は、明日、正式な契約書を確認してから決める」
「分かった。おまえが内容を読めるよう、人間の共通語でも写しを用意させよう」
「始原語の原本も見せてくれ。翻訳が正しいか、自分で確認したい」
「必要ない。婚約契約は古代竜語で書かれており、始原語とは異なる。竜族の法務官が正式に翻訳するから、問題は起きぬ」
「王国で翻訳を理由に追放された人間へ、他人の翻訳を無条件で信じろと言うのか」
「信用できないのは分かるが、竜族の婚約契約は古い形式が決まっている。細かな条件を書き足すことはできても、本文そのものを変更することはない」
リシアはそう言いながら、持参していた細長い箱を机へ置いた。
箱の中から現れたのは、銀色の金属板を薄く伸ばした巻物だった。表面には古代竜語らしい文字が刻まれ、二頭の竜が互いの尾を絡めた紋章で封じられている。
リシアは、明日のために法務官から借りてきただけだと説明した。
しかし、巻物へ近づいた俺の耳には、既に古代竜語の意味が、かすかな囁きとして聞こえ始めていた。
『二つの魂を一つの巣へ結び、互いの魔力と命を分かち合う。契約は血と名によって定められ、死が二人を分けるときまで続く』
俺は銀色の巻物と、どこか落ち着かない様子のリシアを交互に見た。
「一つだけ確認していいか」
「何だ」
「これ、本当に三か月で解消できる契約なのか」
リシアの肩が、明らかに揺れた。
偽装婚約の話はまとまったはずなのに、俺たちが結ぼうとしている契約は、どうやら期限付きという言葉だけでは済まないものらしかった。
第10話 勇者が俺を連れ戻しに来た晩餐会を中断して謁見の間へ向かう途中、俺は何度も右手を握り直していた。寒いわけではない。それでも指先が、雪原へ捨てられたあの夜と同じように震えている。神崎怜央と再会すると聞いた瞬間から、記憶の中に埋めたはずの光景が、嫌になるほど鮮明に蘇っていた。古代神殿の壁画を解読し、人間王国が休戦協定を破って竜帝国へ侵攻したという事実を突き止めた日のこと。俺がその内容を怜央へ報告すると、彼はしばらく黙り込み、やがて困ったように笑った。「遥人、お前の能力が便利なのは分かってる。だけど、世の中には正しいからって公表しちゃいけないこともあるんだよ」あのときの俺は、まだ怜央を仲間だと思っていた。だからこそ、真実を国王へ報告すべきだと食い下がり、王国の戦争に正当性がないことを説明した。翌朝、古代神殿の解読は怜央の功績になり、壁画の内容は「竜族による人間侵略の証拠」へと書き換えられていた。そして俺は、虚偽の報告で勇者一行を混乱させた反逆者として拘束され、その日のうちに国境の雪原へ捨てられた。怜央は最後まで俺の目を見なかった。けれど、その場から立ち去ろうともしなかった。俺が何度名前を呼んでも、少し離れたところで腕を組み、すべてが終わるまで黙って見ていた。殴られたことより、荷物を奪われたことより、あの沈黙のほうが今も胸の奥に残っている。「遥人」隣を歩くリシアが、前を向いたまま俺の名を呼んだ。今夜の彼女は晩餐用の礼装姿で、俺たちが揃いの装いだと誰の目にも分かる。先ほどまで俺の料理を気にしていた女性と同一人物とは思えないほど、その横顔は冷たく整っていた。「会いたくないのなら、私が一人で追い返すわ。母上も、あなたに出席を強制するおつもりはないはずよ」「会わずに済ませたら、たぶん俺は後で後悔する。あのとき言えなかったことを、今度こそ自分の口で言わなくちゃならない」「そう。なら止めないけれど、無理に強がる必要はないわ。怖いなら怖いと言いなさい。怒っているなら、怒っていると言ってもいい。竜族の宮廷では、人間の王国ほど
第9話 竜族の食卓は命懸け「最初に言っておくけれど、今夜の晩餐会では三度までなら失敗しても、私がどうにか取り繕えるわ」皇女宮の食堂で向かい合うなり、リシアは慰めるつもりらしい言葉を口にした。朝日を受けて輝く銀髪も、背筋の伸びた姿勢も相変わらず美しかったが、その説明だけはまったく安心材料になっていない。「四度目はどうなるんだ」「失敗の内容にもよるけれど、決闘になるか、外交問題になるか、その場で毒を飲むことになるわね」「食事へ招待されたはずなのに、どうして命の心配をしなくちゃならないんだ。竜族は毎晩、晩飯を食べるたびに戦争を始めているのか?」「あなたたち人間の貴族だって、食卓では笑顔を浮かべながら政敵の失言を待っているでしょう。竜族は、それを少しだけ分かりやすくしただけよ」少しだけ、という言葉の意味について追及したかったが、リシアの隣に立つ侍女長エヴァが、同情の余地を一切感じさせない顔で三枚の皿を並べたため、俺は口を閉じた。皿の上にはそれぞれ、焼けた石のような黒い肉、青白く発光する魚、そして今にも動きだしそうな赤い木の実が載っている。料理の見本だと説明されなければ、呪術に使う供物だと思っただろう。「第一の禁忌は、主人から出された最初の料理に手をつけないことです。これは『お前が毒を盛ったと知っている』という告発に当たります。食欲がなくても、一口は召し上がってください」エヴァが黒い肉を示す。意識を集中すると、万象通訳が料理に込められた意味を拾い上げた。火山猪の心臓肉。溶岩香辛料を使用。竜族には滋養、人間には発熱、痙攣、場合によっては死亡。「一口で死にそうなんだけど、それでも食べろと?」「ですから、殿下が事前に安全を確認なさいます」「エヴァ」リシアの声が一段低くなった。「余計なことは言わなくていいわ。婚約者を晩餐会の席で死なせれば、私の管理能力まで疑われるもの。これは純粋に政治上の措置よ」『昨日から料理長を三度も呼びつけて、人間が食べられる量まで香辛料を減らさせたなんて知られたら、過保護だと思われる。絶
第8話 皇女宮は俺を夫と認識した『魂約の成立を確認した。新たなる男主人の帰還を歓迎する』 皇女宮から聞こえてきた声は、百年ぶりに待ち人が帰ってきたかのように弾んでいた。 俺には古代宮殿が発する言葉として理解できたが、リシアや法務官シルヴィアにとっては、宮殿全体が突然揺れ、壁や床の魔法文字が一斉に輝き始めたようにしか見えなかったらしい。 応接室の扉がひとりでに開き、廊下に飾られていた花瓶や絵画が次々と移動していく。古びていた銀色の燭台には青白い炎がともり、壁に積もっていた細かな埃まで風にさらわれるように消えた。 長く眠っていた皇女宮そのものが、俺とリシアの魂約をきっかけに目覚めたのだ。「遥人、何が起きている。宮殿は何と言っているのだ」「新しい男主人の帰還を歓迎すると言っている」「男主人だと? おまえは三か月間の婚約者であって、この宮の主人ではない」「俺に言われても困る。そう判断したのは宮殿だ」「ならば、間違っていると伝えろ。おまえは客人として置くのであって、私と同じ権限を与えるつもりはない」「聞こえているか分からないけれど、一応言ってみる」 俺は壁に浮かんでいる魔法文字へ意識を向けた。「皇女宮、俺はこの宮の主人ではない。リシアと三か月限定の婚約契約を結んだだけだ。俺の身分は客分で、宮殿に関する最終的な決定権はリシアにある」 壁の文字が、俺の言葉を考えるようにゆっくりと明滅した。『魂約によって結ばれ、真銀の環を授かった者は、皇女の正式な伴侶である。伴侶は巣を守る男主人として、女主人と同等の権利を持つ』「婚約期間は三か月だ。その後は二人の意思によって解消できる」『三か月後の契約更新については、期限到来時に確認する。現時点では正式な伴侶であり、男主人である』 ずいぶん融通が利かない。「現時点では、俺のことを男主
第7話 恋愛禁止の婚約契約「これ、本当に三か月で解消できる契約なのか」 俺が問いかけると、リシアの肩が明らかに揺れた。 銀色の巻物へ刻まれた古代竜語は、俺の耳へ「二つの魂を一つの巣へ結び、死が二人を分けるときまで続く」と囁いている。どのように都合よく解釈しても、三か月限定の偽装婚約を示す文章には思えなかった。 リシアは俺と目を合わせないまま、机の上へ置いた巻物を箱へ戻そうとした。「今日はもう遅い。詳しい話は、明日、法務官を交えて行えばよい。おまえも疲れていると言っていたではないか」「そうだな。疲れているからこそ、これを三か月の契約だと思って署名していたかもしれない。説明は今聞きたい」「署名させる前には、きちんと説明するつもりだった」「それなら今、説明できるだろう。この契約は、いつまで続くんだ」 リシアは箱へ伸ばしていた手を止めた。 魂語からは、『署名する前には話すつもりだったというのは本当だ。しかし、具体的にいつ話すつもりだったのかと問われれば、答えられない』という後ろめたさが伝わってくる。 黙って契約させるつもりだったわけではないのだろう。ただ、正直に話せば俺が婚約を断るかもしれないと恐れ、説明する時期を先延ばしにしていた。 悪意がないからといって、許されることではなかった。「リシア、俺は王国で、読めない契約書へ何度も署名させられた。勇者一行の一員として登録されたときも、報酬の分配や功績の扱いについて詳しく説明されなかった。共通語へ翻訳された書類は見せられたけれど、原文には、異世界人の功績は王国と勇者へ帰属すると書かれていたんだ」「そのような条項があったのか」「あった。召喚されたばかりの俺は、この世界の文字をほとんど読めなかったし、疑う理由もなかった。後から原文を読めるようになって気づいたけれど、その頃には何年も経っていた。だから、内容を理解できない書類へ署名するのは、もう二度と嫌なんだ」
第6話 皇女からの偽装婚約「遥人。おまえには、私の婚約者になってもらう」 リシアが何を言ったのか、言葉の意味は正確に理解できた。 俺の技能は「万象通訳」であり、聞き慣れない竜族の言葉や始原語であっても、そこに伝えようとする意味がある限り読み違えることはない。それでも、このときばかりは、自分の能力が壊れているのではないかと疑いたくなった。「すまない。転移門を直すために寝ていなかったせいか、今の言葉をうまく理解できなかった。婚約者というのは、竜帝国では別の意味を持つ役職か何かなのか」「おまえが想像しているものと同じだ。将来の結婚を約束した相手、つまり夫となる予定の男を指す」「それなら、聞き間違いじゃなかったらしいな」「最初から、そう言っている」「確認したいんだが、あなたと俺が出会ったのは、昨日だったよな」「正確には、一昨日の夕刻だ。おまえが長く眠っていたので、その分だけ時間が過ぎている」「日数を一日増やしたところで、知り合ったばかりであることは変わらない。しかも俺は人間で、あなたは人間嫌いの竜皇女だ。助けた直後には剣を喉へ向けられ、昨日は所有物と宣言された。そこからどういう順番で考えれば、婚約という結論にたどり着くんだ」「私も好きで、この結論を出したわけではない!」 リシアは声を荒らげた後、廊下に控えている侍従たちへ聞こえたかもしれないと気づき、咳払いでごまかした。 表情だけは冷静さを取り戻したものの、魂から漏れてくる声は混乱したままだった。『もっと落ち着いて説明するつもりだったのに、なぜ最初から言い争いになっているのだ。そもそも、私も好きで考えたわけではないという言い方では、この男との婚約が嫌でたまらないように聞こえるではないか。いや、これは偽装なのだから、嫌でも問題はないはずだ。それなのに、どうして遥人が傷ついた顔をしていないか気になるのだ』 彼女が気にしているほど、俺は傷ついていない。そもそも、
第5話 処刑の代わりに出された条件 竜帝国で迎えた最初の夜、俺は客室と呼ぶには扉の錠が頑丈すぎる部屋へ入れられた。 窓には鉄格子こそないものの、青白く光る細い文字が何重にも刻まれ、触れようとすると「逃亡者を焼却する」という物騒な意味が伝わってくる。扉の外には二人の近衛兵が立ち、部屋の四隅には監視用と思われる水晶まで置かれていた。 家具は立派で、寝台も国境砦で使っていたものより柔らかい。それでも、外へ出る自由がなければ、豪華な牢と呼ぶのが正しいだろう。「少なくとも、雪原で凍死するよりはいいか」 誰に聞かせるでもなく呟き、俺は机の上へ広げられた転移門の記録に目を落とした。 女帝ガルディアが与えた猶予は、明日の正午までである。それまでに古代転移門が動かない原因を突き止め、修復方法を示せなければ、俺は人間王国の間者として処刑される。 しかも、リシアが俺を皇城へ連れ込んだ責任まで問われるらしい。 俺一人の命ならば、どこかで諦めることもできたのかもしれない。しかし、助けた相手まで巻き添えにするとなれば、簡単に失敗するわけにはいかなかった。 記録には、百年以上にわたって転移門を調査した竜族の術者たちの報告が残されている。魔力の供給は正常で、門の石材にも大きな損傷はない。それにもかかわらず、起動させようとすると魔法が逆流し、術者だけを門の外へ弾き飛ばすという。 文字そのものを見なければ、俺にも原因は分からない。 報告書を何度読み返しても同じ結論へ戻り、そろそろ目を休めようとしたとき、扉の向こうから言い争う声が聞こえた。「殿下、さすがに夜も更けております。人間の男が一人でいる部屋へお入りになるなど、いくら監視のためとはいえ、外聞がよろしくありません」「私の所有物を、私が確認して何が悪い。そもそも、私が近くにいなければ、この者が妙な行動を取ったときに止められぬだろう」「でしたら、我々も室内へ同行いたします」「おまえた







